喫茶でいびすは、年に一度だけ、閉店後に再び明かりが灯る。
店内には、閉店と共に止めていたレコードが、再びかけられる。若い人間が聞いても魅力的だと思える、マイルス・デイヴィスの40年代のジャズ。
誰もいないカウンターには、丁寧に挽いたタンポポ珈琲を。店主の手元には、随分と年季の入ってしまった珈琲粉砕器で挽かれた珈琲を。
そうして誰もいないカウンターに向かって、老齢の店主は語りかける。今でもそこに誰かがいるように。
「あれから、随分と時間が経ってしまいましたね」
手元の珈琲を大切なもののようにちびちびと啜りながら、穏やかに、語りかけるように。
「戦後の様子を知っている方も、随分少なくなりました」
「焼けて散らばった線路も、道に転がる瓦礫の山も、最早跡形もなくなっているのです」
そういえば、と、穏やかな笑みから一転、人を挑発するような目をする。まるで、正面にいる誰かを煽るかのように。
「最近の極道共は何奴も手応えのない者ばかり。私は未だに貴方以上の極道と出会えたことは御座いません」
「フフ、貴方と死合うなど、もう二度と御免ですがね。どうか後生ですから、死んでまで極道に墜ち続けないで下さいます哉」
マグを傾け、珈琲を啜る。マグを下ろして現れた顔は、うって変わって寂しげな、そして苦い物を飲み下したかのような表情を浮かべていた。
「……皮肉ですね。貴方をブッ殺してからの方が、蟠りもなく素直に語れるだなんて」
「貴方と死合うなど、二度と御免ですが……生きているうちに、何もかも曝け出して語らう時間が欲しかった」
再びマグを口に運ぶ。淹れた当初はあんなに温かかったのに、既に飲み頃というには少し温すぎる温度になっていた。
「私達はお互いに、どこか不審の匂いを嗅ぎ取っていた。お互いそれに触れぬまま、薄氷の上で絆を紡いでいた」
「然れど、如何に其れが薄氷の上の儚いものだったとしても、築かれた絆は本物だったと思うのです。思いたいのです」
「現に私は、今でも貴方がこの店に訪れる夢を見て居ります。店の扉が開く度、ドアベルの音が響くたび、貴方が長身を屈めて、気だるげに私に声を掛ける姿を──」
そこまで言って、再び珈琲を飲もうとする。そして、既にマグの底が見えるくらいに中身が減っていることに気がついた。
「嗚呼、珈琲を飲み終えてしまう」
「ねえ、貴方は今でも、私の事を親友だと、そう呼んで下さいますか?」
「──獅門」
カチャリ、と空になったマグが音を立てる。
対面のカウンターに置かれた珈琲は、すっかり冷めてしまっている。ただ、それだけだ。駄弁りに付き合って、珈琲の味に喜びながら相手をしてくれる男はもういない。カウンターに置かれた珈琲が飲み干される日は、もう二度と来ない。
店主は、先程の流暢さが嘘のように、無言でマグを片付け始める。まず自分のマグを洗い、布で拭き、棚に戻してから、カウンターの中身の入ったマグを手に取る。
すっかり中身の冷めきったそれを、自棄酒でも煽るかのように一気に飲み干した。
そしてそのマグも綺麗に洗われ、仕舞われるのだろう。この夜の事などなかったかのように。
極道を殺した忍者の、葛藤と愛と涙のように。
訪れぬ客人を何時までも待ち続ける
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