そんなもの、こっちが知りたい

 新たに割り当てられた、つい先日までは空室だったその部屋に、気配を殺して忍び込む。
 がらんどうだったその部屋には、いくつか私物と言えるものがぽつぽつと増えてきているようだった。まだ万屋へは案内されていなかったはずだから、誰かのお下がりやプレゼント品だろうか。一文字の奴らは御前と呼んで敬っているようだから、そのあたりからかもしれない。
 私物が増えているとはいえ、未だ広々とした部屋の中、敷かれた布団に近づく。
 いくら本丸の中、いくら練度差があるからといって、部屋の中まで他のものが入り込んで、目が覚めないなんてことはないだろう。恐らくこちらの出方を伺っているのだ、と察して、普段相手が浮かべてくるニヤニヤとした表情まで思い浮かべてしまって腹が立ってきた。
(その態度、後悔するなよ)
 すぅすぅと穏やかに寝息を立てる、その体に跨がる。闇夜の中でも時折きらりときらめく金の髪、同じ色の睫毛は案外長く繊細で、息をするたびかすかに震える。こうやって口を閉じてじっとしてればただの美刃なのにな、なんて柄にもないことを思ってしまって、そんな考えを打ち消すように首をゆるく振った。
「……起きてるんでしょ、性悪じじい」
 確信を持って、それでも外に聞こえないよう声を潜めて囁くが、反応はなにも返ってこない。ただ、規則正しい相手の吐息だけが、静かな部屋に響く。
「この状況、何をされるかわからないほど初心じゃないでしょ。いいの?」
 それでも何も返ってこない。それくらいのことなら構わないとの事なのか、どうせそんなことをするような刀ではないと思われているのか。
 どちらにせよ、腹は立つ。
 ゆっくりと、整った顔に顔を近づける。自分の前髪がさらりと流れ、相手の額に触れる。うっすら開いた唇は、もう目と鼻の先だ。
 相手の呼吸が乱れた様子もない。さっきからずっと同じように、本当に寝付いているのではないかと思ってしまうほどに穏やかに続いている。
 その少し乾燥してかさついた唇に、触れて、離す。押し付けただけの口づけのあとに、ぱちりと目を開いた狸寝入りのくそじじいと目があった。
「んん? それだけでいいのか、坊主」
 その言いぐさに眉根を寄せて、はあっとため息をつく。さっさと上体を起こして、相手の体の横に体育座りで座り込んだ。頬を膝に当てて、顔だけそちらを向く。
「本気で何かするわけないでしょ。そっちは特がついたばかり、こっちは修行帰り。力量差に任せて無理やりなんて、サイテーじゃん。……ただ、意識させたかっただけ」
 遅れてやってきた恥ずかしさに耐えかねて、最後の方はふいっとそっぽを向く。頬がほんのり熱くなるのが自分でもわかった。
「そりゃ、あんたから見たら、子猫ちゃんかもしれないけどさ。……ちゃんと見てよ、俺のこと」
 こいつときたら、年長者ぶってひとのことをからかってばかり。そりゃあこいつの打たれた年代、重ねた歴史からすりゃ、俺なんて子どもみたいなもんかもしれないけど、でもそんな子どもだって……恋をするんだ。調子がよくて掴みどころがなくて、弱みなんかちっとも見せてくれない、めんどくさいじじい相手にさ。
「見ているさ」
「嘘だ、ひとのことからかってばっかりなくせに」
「見ているよ」
 重ねて帰ってきたその声が、不思議なほどに落ち着いていて思わずまた顔を見る。部屋の中は暗くて、この距離だと表情まではよくわからない。けれど、なんとなくいつもとは違うような気がした。
「僕は人の営みを、愛を見てきた。けどそれは、お前が今僕に求めた愛とは違う、もっと大枠なものだ。個が個を想う愛なんて、僕はまだ知らない。体験していない、と言ったほうが正しいか」
 いつもよりだいぶ平坦な声色に聞こえるその言葉に、はっとする思いがした。
 確かにこいつは年長者で、俺たちなんかよりずっとじじいだけど、ひととしての器を持ったのは俺のほうがずっと先なんだ。
「……なあ、お前の見せる愛は、一体どんな力になるのだろうな」
 言葉としてはこちらへの問いかけだが、最初から答えなんか求めてない、ただの自問自答のようだった。どこかぼんやりとしたその視線を捉えたくて、捉えてほしくて、もう一度のしかかって肩を掴む。
「なら、あんたも考えろよ。俺と一緒に考えろ。もとより、あんたが投げかけてきた問じゃないか」
 俺の言葉に、ぱちり、瞬きをして、それから口の端を釣り上げ、くつくつと体を震わせ笑い出す。弧を描いた目の形は、もうすっかりいつもこいつが見せる腹立たしい笑い方そのものだった。
「うははは! そうくるか、小僧。いいぞ、一緒に考えてやろう。お前は僕に個を想う愛を教えてくれる、僕はお前に人と刀と物語の愛を教えよう。それでよかろう?」
「それでいーよ、なんでも。あんたが意識してくれるんならね」
 この笑い方は腹が立つけど、でもこいつはこう笑っている方がよく似合う。それのどこまでが本音で、どこまでが仮面なのかは知らないけれど、それはこれから見極めていけばいい。
「まず手始めにさ」
「うん?」
 それはそれ、これはこれとして。意識してもらう上で、どうしてもやめてほしいことが一つだけあった。
「ガキ扱いすんの、やめてよ。その坊主ってやつ」
 そんな呼ばれ方じゃ、いつまでたっても年下のひよっ子を卒業できる気がしない。あと純粋にムカつく。
 むくれながら言ったその台詞に、腹立たしいことにこいつは盛大に吹き出したあと、嫌味なほど慈愛に満ちた笑顔でのたまった。
「お前がくそじじい呼ばわりをやめたら考えてやろう、くそ坊主」

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