迷い犬と拾い主 - 1/5

 その日は一日中ついていなかったように思う。
 大学では確かに入れたはずのゼミの資料が見つからなくて、学食で昼を買おうとすれば目当てのものが目の前で売り切れる。
 バイトをすれば、いつもならしないような些細なミスやら、理不尽なクレーマーやら出る始末で、くたびれてようやく家の前まで帰ってきたら今度はこれだ。
 見知らぬ男が、ひとのアパートの入り口前でぐったりとうずくまっている。
「……おい」
 声をかけたが、うめくような声を上げるばかりで反応という反応がない。
 病人だとしたら大変だと、一応様子を確認する。間近によるだけで匂ってくる酒の匂い、顔を上げさせて一瞥したところ、紅潮した頬と苦しそうに寄せられた眉、どう見ても酔っ払いだ。呼吸は浅いようだが、ちゃんと息はしている。嘔吐した様子もない、動かないだけで救急が必要なほどではないのだろうと見当をつけた。
 どうせただの酔っぱらいだ。せいぜい通報するなり放置するなりほうっておけばいいんだろうが、どちらにしてもどうにも目覚めが悪くなりそうだった。仕方ない、と嘆息して、その酒臭い体を抱き起こす。
 細身に見えたくせに意外と筋肉質だったようで、抱えられないほどではないが想像以上に重たい。自分より背が高かったそいつを、半ば引きずるようにして自分の家へ運び込んだ。
 床に転がしておきたくなるのを抑えてベッドに押し込んでやり、自分は床に客用布団を引いて横になる。
 まったく、厄日だった。

 

 かちゃかちゃと陶器の擦れる音、それから水の流れる音がかすかに聞こえる。
 もともと寝起きはそれほどよくない。まだ重い瞼をこすりながら、布団から上半身を起こした。回転の鈍い頭で、なぜ自分は床で寝ているのかを思い出そうとする。
(……そういえば、人を拾ったんだったか)
 ずいぶんと大変な思いをしながら、自分よりでかい男を引きずってベッドに放り込んだことを思い出す。ベッドに目をやると、そこはきっちりたたまれた布団と枕だけが乗っていた。
 チン、とトースターの音と、何か肉の焼けるいい匂いが台所のほうから漂ってきて、ぐうと反射的に腹が鳴る。そちらに目を向けると、昨日ベッドに放り込んだ男の後ろ姿があった。
「おい、あんた、何してるんだ」
 昨日のぐったりした様子からは想像できないくらい、背筋の通ったしゃんとした立ち姿で料理をしている後ろ姿に声をかける。
「起きたのか。昨日は助かった、礼代わりに朝食くらいは作ってやろうと思ってな。もうすぐできるから待っていてくれないか」
 少しだけ手を止め、ふりむいてそう言ったかと思うと、またガスコンロに向き直った。
 しばらくして、いい匂いとともにこちらまで戻ってくる。
 皿の上にはトーストに乗せられたほどよく焼けたベーコンとトロリとした玉子、それにちぎったレタスが添えられている。それをちゃぶ台の上に乗せて、またキッチンに戻ったかと思うと麦茶を持ってきた。
「コーヒーがないってことは、お前朝はご飯派だったのか? つい癖でベーコンエッグにしたが、まあ許してくれ」
「いや、そもそも人の家のものを勝手に使うな」
「安心しろ、お前の分しか作ってないから」
「そういう問題じゃない」
 不躾な闖入者に文句をつけるが、その時また腹の虫がグウと鳴る。居たたまれなくなって黙ると、まあ食えよと男は向かいに腰を下ろした。
 何にも納得はしていないし得体のしれない男が作ったものに手を付けるのもどうかと思うが、腹が減っているのは事実なのでとりあえず眼前の食事を食う。外はカリっとしているのに中はふわっとしたままのトーストと、ほどよく焦げ目のついた脂ののったベーコン、それを中和するようなとろりと絡む白身と黄身が文句のつけようがなく美味い。まるで喫茶店で食うような出来栄えに、こいつ見た目によらず料理できるんだなとどうでもいいことを考えた。
 あらためて、目の前の男の風貌を見る。
 煤色の短く整えられた髪、昨日は閉じられていてわからなかったが、澄んだように美しい藤色の瞳。目鼻立ちははっきりとしていて、特に勝気にも見える吊り上がった眉が、引き締められた口と相まって印象的だ。自分の兄弟たちもイケメンだし格好いいが、こいつはそれとはまた違った格好良さがあって、さぞかし女にモテるのだろうなと思わせた。
 そんな、料理やら家事やらは女にやらせてますと言わんばかりのイケメンが、こんな風にあり合わせで十分うまいものを用意できる。なんでそんな完璧なイケメンが、あんなところで一人行き倒れてたんだと、関係のない部分で腑に落ちない疑問を感じた。
 自分がきっちり皿の上を空にした頃、一部始終を見ていた男は、とんでもないことを言い出した。
「なあ、迷惑ついでに言うだけ言ってみるんだが……お前、俺を泊めてくれないか」
「はあ?」
「しばらくの間でいい。新しく移れるところが見つかるまででいいんだ。今、家無し職なしでな。家事なら何でもできるから、家事手伝いとしてでも置いてくれないか」
 この歳の、少なくともどう見積もっても大学生の自分より年上の男が職も家もないなんて、どう考えても怪しすぎる。そもそも酔っぱらってたやつを一時的に保護しただけで、何も知らない人間を自分の家においておけるわけがない。あきれて男を見返すが、男が申し訳なさそうに頭を下げて、こちらを伺うだけだ。
 ……はあ、とため息をつく。
 家もない職もない、そんな人間をそのまま知らんと外に放り出せるほど、自分は押しが強いほうではなかった。よく兄弟には優しすぎると言われるが、これも性分だ。
「……何かあれば、すぐに警察に突き出すからな。身分証くらいは持ってるだろう。保険として渡せ」
「え、いいのか?」
「自分で聞いておいて何で驚くんだ」
「いや……言い出した俺が言うのもなんだが、まさかいいと言ってもらえるとは思わなくて」
「別に出ていきたいならさっさと出て行ってもらって構わないんだぞ」
「いやそういうわけじゃない! 身分証だな、保険証でいいか」
 男は慌てて、自分のポケットに入れていた財布をあさる。そしてあっさりと保険証を差し出した。
「……お前こそ、よくあっさりと身分証を渡せるな。俺が悪用するとは思わないのか」
「元は俺が無茶を言ったからな。それくらいかまわんさ」
 手渡された保険証を見る。社保ではなく国保だったのが社会人らしい見た目からは意外だったが、そういえば本人が職なしだと言っていたのだったか。長谷部国重、24歳。
「……お前、意外に若いんだな」
「よく言われる」
 27くらいかと思った、と言えば、苦笑を返された。お前は大学生か、と聞かれて頷く。
「堀川切国だ」
「長谷部国重だ。しばらくの間、世話になる」
 こうして、少しさみしい一人暮らしを満喫していた自分のすみかに、居候が一人転がり込んできたのだった。

0