夜部屋に、と言われてからというもの、何も手につかなくなった。元から今日はほとんど何もできてはいなかったが、輪をかけてひどい。
何をしていたところで、長谷部の声が耳にこびりついたように離れない。辛抱強く話しかけてきてくれた江雪兄様まで、しまいには「しばらく時間が必要なようですね」と離れていってしまった。
上の空でぼうっとしてたら夕餉の時間を超え、入浴の時間も超え、あっというまに就寝前の最後の自由時間だ。せっかく呼ばれたのにいかない訳にもいくまいと、寝間着姿のままで廊下を歩く。さして部屋が離れているわけでもない、数分歩けばすぐ長谷部の部屋までついてしまった。
ぼんやりとオレンジ色の明かりの漏れる襖に、開けるのを躊躇する。けれど、外の影で来客がわかったか、こちらの心の準備が整う前に向こう側から開かれた。
「なんだ、部屋の前でぼうっとして。早く入れ」
「はい……」
就寝時間前で、長谷部自身も寝間着に着替えているというのに、なぜかちゃぶ台は広げられたままだ。その上にはポットと茶器と、ふたり分の湯呑みがある。
「酒を飲みながら話す内容でもないしな。まあ、座れ」
「では、お邪魔します」
勧められるままに、片方の湯呑みの前に座る。その対面に長谷部が座り、茶器にお湯を入れ茶を入れ始めた。
互いに無言で、ひとくち茶を啜る。湯呑みを机に置いた途端、長谷部が口を開いた。
「こうやって夜に顔を合わせるのは二回目だな。修行に行く前以来か」
まさか長谷部からそんな話を振ってくるとは思わなくて、思わず飲み込み損ねた茶でむせ返った。ごほごほとむせるこちらを見ても、長谷部はすました顔だ。
「あの、あの時のことは、その……すみません」
「なぜ謝る?」
「なぜ、って、その」
どうにも言葉に詰まって、二の句が告げない。長谷部がどういうつもりで、あの時のことを蒸し返してきたのかわからない。困り果てて顔を見るが、穏やかに眉が下がって目尻が緩む、いつも通りの微笑みで内心が読めない。
ふいに、長谷部が動く。
机から体を乗り出し、こちらの頬に手を当てて、撫で下ろす。そのまま額と額がくっつきそうなほど顔を近づけて、鼻先が触れる。ふわり、と石鹸の匂いがした。あの時とはまるで逆の構図になり、心臓がどくどくと脈打つ。
「一応確認なんだが、お前は俺のことが好きなんだよな?」
あんなことをしておいて、いいえ違いますとはとても言えない。言えないが、先走ってしまった以上今から言うのも言い訳くさい、格好がつかない、色々な理由で肯首できなかった。
長谷部だって、どうせ察してはいるのだろう。何のために、わざわざ確認を取るのか。
もし拒絶するためだったら。そう思うと、目の前が真っ暗になりそうだ。
それでも否定する言葉など吐けるわけもなく、肯定する言葉を紡いだ。
「……ええ、そうですよ」
「そうか、それはよかった」
――よかった?
その言葉の意味を理解するまえに、長谷部の口から決定的な言葉が告げられた。
「俺もお前が好きだ、宗三」
頭の中が真っ白になる、とはこういうことを言うのだろう。
放たれた言葉に、さあっと今まで思い浮かんでいたことがすべて吹っ飛んでいく。すっからかんになった頭のなかに、ぽたり、喜びの色が垂れて滲みだす。
まだその暖かい色に頭の中が染め切られる前に、頬に当てられていた手に引き寄せられて、唇に柔らかなものが一瞬触れて、離される。
先ほどよりは距離をとった、それでも目と鼻の先の距離で、長谷部が心底嬉しそうに笑っていた。
「あの時はすまなかった。俺もまだ、いろいろ覚悟がついてなくて、受け入れられなかったんだ。ただ、気持ちはずっと一緒だ。俺もお前が好きなんだ」
「……ほんとうに?」
「冗談でこんなことする刀だと思うか?」
喜びが大きすぎて信じきれなくて、先ほど柔らかな感触のふれた唇を指でなぞる。こちらからも相手の頬に手を伸ばしても、まるで抵抗もしない。あの時のように、表情がこわばりもしない。そのまま顔を近づけて、同じようにキスをしても、素直に目を閉じて受け入れるばかり。
ふたりを隔てるちゃぶ台が邪魔で、そのまま長谷部の隣まで寄っていく。より近くなった距離で、両頬を包んでキスをした。
最初は唇が触れるだけ、重ねるだけ。その柔らかさを食むように、次第に深く重ねていく。おずおずと舌を差し入れれば、応えるように絡まされた。ぬめぬめとした舌が、それだけが意志を持った生き物のように絡み合う。体温が上がる。自然、呼吸が荒くなる。
そのまま衝動的に押し倒そうとして、そこで初めて抵抗をされて顔を引き剥がされた。
「……続きは、お前が俺と肩を並べられたらな」
ニヤ、と笑うその顔は意地悪いそのもので、ぐっと奥歯を噛み締める。これほどたった1レベルの差が恨めしいことはなかった。
「その言葉、覚えていなさいよ」
「忘れやしないさ。せいぜい楽しみにしているよ」
「……後悔しても知りませんからね」
とまれキスまでだったらお許しが出ているようなので、その日はずっと、唇を味わう作業に没頭したものだった。
その続きはまたあとで - 3/3
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